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上の橋 青銅擬宝珠
上の橋は盛岡城築城に合わせて、慶長十四(一六〇九)年に二七代南部利直公によって架けられました。欄干は国の重要美術品に指定された青銅製の擬宝珠で飾られています。故事によると、南部十二代政行が詠んだ歌への恩賞として村上天皇より京都鴨川橋と同型の擬宝珠の使用が許可されたといわれています。何度も水害に遭い橋も流失しましたが、その都度擬宝珠は守られ現在も慶長十四年製の擬宝珠が八個、慶長十六年製が十個取り付けられています。
三ツ石神社 〜鬼の手形〜
東顕寺の裏にしめ縄が張られた三つの巨石があります。伝説では岩手山の噴火で飛んできたといわれ、人々から三ツ石様と呼ばれて信仰を集めていました。その昔、この地方に住む羅刹(らせつ)という鬼が人々に悪さをするので、三ツ石様にお願いしたところ、たちまち巨石に縛り付けてしまいました。羅刹は悪さをしない約束として三ツ石に手形を押し、これが「岩手」の地名伝説にもなっています。
イチョウの木
上の橋際のイチョウの大木は盛岡市の保存樹木です。かつてこの大イチョウの向かいには岩手県立中央病院があり、患者さんたちを見守り続けていました。昭和六二(一九八七)年の病院移転計画に伴う道路整備で切られそうになりましたが、保存を願う市民の声にこたえ、道路を分断する形で残されました。盛岡の歴史とともに生き続けた大イチョウは今でも人々を癒し続けています。
モリオカシダレ
モリオカシダレは大正九(一九二〇)年に国の天然記念物調査員の三好学博士が龍谷寺で発見した新種。昭和十一(一九三六)年に国の天然記念物に指定されました。龍谷寺は明治四(一八七一)年から同二八(一八九五)年まで、石川啄木の母方の伯父・葛原対月が住職でした。啄木の父・一禎は対月の弟子で、啄木の母・カツは対月の妹。二人が結ばれたのはこの寺でした。少年時代の啄木はしばしば寺を訪れ、対月から詩歌の手ほどきを受けたといわれています。
岩手医科大学一号館
私立岩手病院として明治三十(一八九七)年に開設以降、岩手の医療を牽引してきた岩手医科大学。趣ある一号館は旧岩手病院の診療棟として、盛岡出身の葛西萬司の設計で大正十五(一九二六)年に完成しました。葛西は岩手銀行旧中ノ橋支店や盛岡信用金庫本店、東京駅などを手掛けた建築家です。同学は矢巾町への移転事業が進められていますが、一号館は保存されることになっています。
塩の道
盛岡城下と三陸北部の野田村を結ぶ小本街道・野田街道は、「塩の道」ともいわれています。野田村では、かつて海水を大鉄鍋で煮詰める直煮法で塩を作っていました。その塩は牛の背に積まれ、南部牛方と呼ばれる行商人達が野宿をしながら北上山地を越え、盛岡近在に運びました。牛方たちは「いなかなれども南部の国はよ~」と名調子を口ずさみながら旅をしました。
石灯籠 料亭丸竹楼跡
かつて本町には本街(ほんがい)と呼ばれる花街がありました。丸竹は代表的な料亭で、明治六(一八七三)年に茶屋として創業、昭和十(一九三五)年頃には純木造三階建ての丸竹楼として全盛を迎えます。戦時中に強制廃業、建物強制疎開で取り壊しとなりましたが戦後営業を再開し、平成九(一九九七)年まで市民に親しまれました。今では上ノ橋観光バス駐車場に、裏庭の一部と大きな石灯篭がその歴史を伝えています。
平野商店(旧平野旅館)
油町には牛方宿という牛や馬を何十頭も繋留できる大きな宿がありました。この町には塩の道や奥州街道を通って物資を運んだ牛たちが集まり、城下と沿岸部を結ぶ流通センターの役割を果たしていました。牛方宿の一つ、旧平野旅館は藩政時代から「河権」(かわごん)として知られていました。塩問屋も兼ね、昔の面影を今に残しています。現在は荒物や雑貨を扱い、自家製味噌やりんごの販売もしています。
深沢紅子野の花美術館
野の花を生涯の範とした画家・深沢紅子を顕彰する美術館。本町は紅子の生誕の地。中津川のわすれな草は紅子の原点です。戦後は荒廃した故郷の子どもたちのために夫・省三とともに絵画教室を開き、情操教育に尽力しました。晩年、隣家のもらい火でアトリエが燃え、作品が消失しましたが「下手な絵を神様が燃やしてくださったのよ」と気丈に受け止め、最期まで絵筆を握りました。
おかんの墓
盛岡城の築城人夫の三平には「おかん」という美しい妻がいましたが、職人頭の高瀬軍太はおかんに横恋慕し、三平を亡き者にしようと企んでいました。それを知ったおかんは夫に変装し身代わりとなってこの世を去ったのです。悔いた高瀬は大泉寺で頭を丸めました。おかんは三平を案じ枕元で「成仏の印に墓石を叩いて下さい」と語り掛け、三平は「カンカン」と鳴る墓石の音に心を慰めました。
ムカデ姫の墓
先祖が大ムカデを射止めた矢の根を土産に二七代南部利直公に嫁いだ於武(おたけ)の方。最期は江戸桜田で迎えましたが、遺言で盛岡に葬られました。当時、お墓の前に濠(ほり)があったため、太鼓橋を架けましたが、不思議なことに渡り初めの日に橋が崩壊。その後も架けては壊されるため、人々は「大ムカデの怨霊のせいだ」と噂し、いつしか於武の方はムカデ姫と呼ばれるようになりました。
飢饉供養塔
江戸時代の南部藩は、度重なる凶作に襲われました。特に元禄・宝暦・天明・天保の飢饉(ききん)は南部藩四大飢饉といわれ数万人の餓死者、病死者が出ました。盛岡城下とその周辺にはたくさんの供養塔があり、最大のものは茶畑の十六羅漢(らかん)さんです。東顕寺の『四百九十男女餓死亡霊供養塔』は、天明三(一七八三)年の飢饉で亡くなった方々の供養塔で、文化七(一八一〇)年の建立。盛岡市の重要有形民俗文化財です。
大智田中地蔵尊
第五代盛岡藩主南部行信が、母堂の菩提を弔うため元禄七年(一六九四)に建立されました。当時、東禅寺門前の荼毘地跡の田園にあったものを、四ツ家町の有志が町内に勧請して祀りたいと願い出、大正元年(一九一二)十月現在地に遷座されました。今でも管理者は地元四ツ家町内会であり、地域の方々により『田中の地蔵さん』『四ツ家の地蔵さん』と親しまれ守られています。市指定有形文化財。
牛越え場
かつて橋板が傷むという理由で、重い塩袋を積んだ牛は上の橋を渡ることができず、牛方たちは橋の少し上流の浅瀬に下りて川を越えました。そこで、牛たちを河原に誘導するために石畳の坂道が作られました。それが「牛越え場」です。今でも当時の石畳がそのままの形で上の橋と富士見橋の間に残っています。
上の橋緑地 文学散歩道
中津川のほとり、上ノ橋緑地公園。ここにはいくつもの碑が建てられています。盛岡市出身で、石川啄木に憧れて歌人となった大西民子(一九二四~一九九四)。田中冬二、山口青邨の詩歌碑はそれぞれ中津川を詠んだもの。慶長一八 (一六一三)年、城下盛岡に最初に移住した近江商人村井新七を顕彰した「近江商人わらじ脱ぎ場」の碑もあります。ここから中津川原に降りると下の橋までの遊歩道にはさらに八基の詩歌碑があります。
富士見橋
昭和五十六(一九八一)年に架けられた歩行者専用橋。旧橋は大正三(一九一四)年架設の木橋でしたが昭和十九(一九四四)年の洪水で流失しました。南部富士の別名を持つ岩手山を望むことからこの名があります。近くに啄木が文芸誌『小天地』を発行した家があったことから、左岸の親柱には啄木の短歌が刻まれています。また欄干には『小天地』の表紙に描かれたけしの花のデザインをあしらっています。
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